兜射貫き・弓道「正法流」開祖 吉田能安 門下生・山崎誠のHP

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正法流の射義・射法については「弓の道 正法流入門」「弓道いろは訓」「弓道研究」等を
参考にして下さい。私が能安先生から教わったまさしくそのものが書かれています。
このブログではそれ以外のことで私が教わったことやエピソード等を書き綴っております。

49.「離れ」の熱血指導

2016/09/14  カテゴリ:能安先生から学んだこと


桜美林大学OG 吉仲紀子さん提供写真 その2

……… 「能安先生の熱血指導 ・ 追いコン集合写真」 ………

吉仲紀子提供 2016-08-20 008_500.jpg


【吉仲記】
能安先生の「離れ」に関する熱血指導の場面です。(昭和52年、夏合宿、新潟
県妙高高原、学芸大付属高校泰山館弓道場)

【山崎追記】
能安先生は

 「離れは、『弦1本の直径分(1~2㎜)の捻りをとる』
                     ことから生まれる」

と、写真のように、『勝手』を審判席に向けたり、垂直に床に向けたり天井に
向けたりと、自在の『離れ』を実演してみせてくれました。

しかも驚きです。 そのような自在の『離れ』から出た矢は、巻藁に真っすぐ
に入っているのです。 

確たる理論を持ち、自ら実践し証明して見せる。 教わる者は、「なるほど」
と納得し、誰もが能安先生に惹かれ心酔してしまうのです。

吉仲紀子提供 2016-08-20 002_500_500.jpg


【吉仲記】
追いコンでの集合写真です。(昭和54年、新宿東京大飯店にて)

【山崎追記】
今から40数年前の追いコンの集合写真ですね。 能安先生の指導に魅せられ、大学生
は4年間、短大生は2年間『弓道一筋の学生生活?』を謳歌されたことでしょう。

彼らは、現在50代半ばでしょうから、現役学生の保護者の方々より、少々上の年代に
当たるかもしれません。 能安先生の横にいる、私の青年監督時代の学生達ですから、
当時が懐かしく思い出され、皆さんがどのように変わられているのか、お会いしてみ
たいものです。

当時の貴重な写真を郵送提供してくれた、吉仲紀子さんにこの場をお借りして、OB・
OGの皆さんと共に、心から感謝と御礼を申し上げたいと思います。


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今後の予定として「能安先生から教わったこと」については、以下のことについて
述べてみたいと考えております。 順不同となることもご了承戴き、気長にお待ち
戴ければ幸いに存じます。

◎  射は君子の争い
◎ 「射」は観徳の器である。
◎ 書の基本「九成宮」を学べ。
◎ 「弝引き」の効能と重要性



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48.能安先生の優しい笑顔

2016/09/13  カテゴリ:雑記


桜美林大学OG 吉仲紀子さん提供写真 その1

……… 「能安先生の優しい笑顔・学生達に囲まれる能安先生 ………

桜美林大学OG吉仲紀子さんから次の様な内容のお手紙と、写真が送られてきました。

【吉仲記】
<休憩中に鳴海先輩(現 三浦恭子さん)と談笑する能安先生>

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「山崎監督、いつも懐かしくHPを拝見させて戴いております。 
  (私の学生時代の監督は山崎先輩でしたから、『山崎監督』と
     お呼びすることをお許し下さい。)

トップページに使われている能安先生の「威風堂々の写真」、ブログ46の「肌脱ぎを終え、
弓を弓手に持ち替える直前の写真」、いずれも正しく『これぞ能安先生』というお顔の
写真ですね。 

能安先生と山崎監督は、弓道を通じての人間教育とか、天下国家を論じる難しいお話をさ
れておられことを、側で伺っておりましたが、私たち一般部員にとっては、稽古の合間
の休憩時間や、稽古を終えた後の自由時間に、お見せになる能安先生の優しい笑顔が忘れ
られません。 そんな能安先生の『優しい笑顔』の写真をお送りしますので、ブログの合
間に載せていただけませんでしょうか。…………………… 」

【山崎追記】
鳴海さんは青森県黒石市から桜美林大学に入学。 黒石は、全弓連初代会長を務められた
宇野要三郎先生の出身地でもあります。 能安先生は「鳴海は黒石か。だったら宇野先生
の所じゃないか」と、特に気に懸けて下さっておりました。

【吉仲記】
<学生達に囲まれる能安先生、静岡県川根駅ホームにて>

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昭和54年3月、静岡県立川根高等学校弓道場をお借りして春合宿が行われました。合宿を
終え、川根駅ホームで列車を待つ合間に能安先生を囲んで撮影された写真です。 先生の
左隣でコート着て立っているのが磯学君(二代目のOB・OG会長)。 右隣が先生の秘書
役を仰せつかっていた私(吉仲紀子)です。

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今後の予定として「能安先生から教わったこと」については、以下のことについて
述べてみたいと考えております。 順不同となることもご了承戴き、気長にお待ち
戴ければ幸いに存じます。

◎ 桜美林OGから、このブログに是非載せて欲しいと、送られてきた写真。
◎  射は君子の争い
◎ 「射」は観徳の器である。
◎ 書の基本「九成宮」を学べ 。
◎ 「弝引き」の効能と重要性



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47.能安先生の「打ち起こし」について

2016/07/25  カテゴリ:能安先生から学んだこと


正法流の「打ち起こし」の要諦について

……… 打ち起こしは「狭く、高く」 ………

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上記の写真は、以前にも紹介した、桜美林大学弓道部の第一回目の合宿で、能安先生
が引かれた礼射の一コマで、私が撮影したものす。 

能安先生は「打ち起こし」については、「打ち起こしは、狭く高くを基本にせよ。」
と指導されました。 続く「大三」は、『心臓があるため左の肺より、右の肺が大き
く、その右の肺で大きく息を吸いながら、「大三」に移行すると、右脇胴が自然に無
理なく張られ、雄大な「大三」が作られるのだ』と申されておりました。

私の全弓連錬士五段の教え子は、近頃教錬士会の講習会に行くと、講師の先生方が
「打ち起こしは、狭く高くと、よく仰るんですよ。 高校時代、山崎先生が私たちに
教えて下さったように」と。 

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今後の予定として「能安先生から教わったこと」については、以下のことについて
述べてみたいと考えております。 順不同となることもご了承戴き、気長にお待ち
戴ければ幸いに存じます。

◎ 桜美林OBから、このブログに是非載せて欲しいと、送られてきた写真。  
◎ 「弝引き」の効能と重要性
◎  射は君子の争い
◎ 「射」は観徳の器である。
◎ 書の基本「九成宮」を学べ。




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46.能安先生の「肌脱ぎ」前後の作法について

2016/07/20  カテゴリ:能安先生から学んだこと


正法流の「礼射」に於ける体配・作法について

……… 現在に礼射の元の形と言われている ? ………

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上記の写真は、以前にも紹介した、桜美林大学弓道部の第一回目の合宿で、能安先生
が引かれた礼射の一コマで私が撮影したものです。 正法流では本座ではなく、射位
で「肌脱ぎ」が行われます。 

故松原興一先生(元青森県弓道連盟副会長、元八戸弓道協会会長、私の父親と同年代
の方)が、20年程前、三戸にお出でになりの弓道大会の審判長をなさった時に、能安
先生から教わった、私の矢渡しをご覧になり、次のように話されたことがあります。 
「昭和の初め、私の学生時代、仙台では同じ作法・体配の礼射でした。 これが改定
に改定を重ね、現在の全弓連の礼射になったのです。 いつかあなたの礼射をビデオ
に撮り私に送ってくれませんか。」と。

松原先生のこのお話は、私の生まれる前のことであり、私にとっては真偽の程はよく
分かりませんが、とても興味深いものでした。

能安先生は、近世の弓聖阿波先生の高弟であり、度々仙台に出かけられたことは、
生前何度か伺ったことがあります。 私のあくまでも推測ですが、私が能安先生から
教わった礼射は、阿波先生直伝のものかもしれません。

正法流紫鳳会では、この礼射が現在でも受け継がれ伝統が守られております。 紫鳳
会発行の「弓の道 正法流入門」には、井戸先生(昭和29年天皇盃獲得者)の連続
写真による礼射が掲載されております。

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次回は以下のことについて述べてみたいと考えております。

◎ 能安先生の打ち起こしの写真
   打ち起こしは「狭く、高く」、
  「左より大きな右の肺で大きく息を吸いながら」大三をつくるべし。




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45.「北斗の人 」(司馬遼太郎著)を読んで

2016/07/19  カテゴリ:能安先生から学んだこと


「北斗の人」の中に出てくる逸話について

……… 能安先生曰く「昔から有名な話なんだよ」 ………

前回のブログで述べた通り、以下は昭和45年春頃の話になります。 私は姉の勧め
により山岡荘八による「徳川家康」全18巻を読み終えることができました。 私は
小学生の頃に教えられた家康像と全く異なる家康に触れ、尊敬の念を抱くようになっ
ていったのです。 読後、徳川家康の人となりに感銘を受けた私は、次第に家康に少
しでも近づけるような人生を歩みたいものだと考えるようになりました。

また人生の生き方に共感できるような別の歴史小説がないものかと、大学での部活動
を終え下宿先の玉川学園前駅に向かう途中、新原町田駅前(現在の小田急町田駅)に
ある久美堂書店に立ち寄ったのです。

その久美堂に入るや否や、真っ先に歴史小説コーナーに直行。 そこには吉川英治、
海音寺潮五郎等の作品が並んでおりましたが、何故か司馬遼太郎の「北斗の人」の
前で足が止まり、手に取って見ると、 北辰一刀流開祖である千葉周作の生涯が描か
れているという文言が目に入り、これは面白そうだと興味が湧き早速購入。 下宿
で夕食を戴いた後、読み始めると面白く、翌日が日曜日でもあったこともあり、時
の経つのも忘れ 一晩で一気に読破してしまいました。 

その本を通じ、千葉周作は理に適った合理的で無駄の無い剣術指南により、多くの
優秀な門弟を育てたことが分かり、私は一武芸家としての生き様に心を打たれ、
家康とは一味違った感動を覚えたものです。 剣と弓の違いこそあれ、共通項もあ
り、家康とは違った観点から参考になる事多く見つける事が出来ました。

例えば、その中で描かれたキコリと妙な獣の逸話から、「無心」の大切さを学んだ
のです。 この逸話については、このHPの「山崎誠の文集」の冒頭の文(私が28歳
当時に書いた文)に引用させて戴いておりますので、そちらをご覧下さいませ。 
さらに春斎の逸話では、茶坊主春斎が、辻斬りに醜い斬られ方をされたくないと、
教えを請いに千葉道場に出向くと、周作は剣の極意は「相打ちである」と、「無念
夢想」構えを伝授。 春斎は辻斬りに周作から教わった通りの構えをとると、辻斬
りは相手は死ぬ覚悟できており、相打ちになることを悟りその場を立ち去ったとの
こと。

数日後、吉田道場に稽古に伺った際、能安先生にこの「無心」についての逸話をお話
申し上げたところ、先生は私の話を遮ることなく、最後までお聞き下さった後、笑顔
で「その話は昔の武芸家なら誰でも知っている有名な話なんだ 」と申されました。 
そして能安先生は「もう一つ面白い逸話があるんだ。」と、私が次にお話を申し上げ
ようと思っていた、春斎のお話を事細かに話されたのです。
この能安先生との会話のやり取りを通じ、弓道のみならず、先生の造詣の深さに改め
て感服した次第でありました。

先生はいつもの如く柏手を打たれ、「貞子、山崎に茶と菓子を出してやれ。」と。 
奥様が先生と私のお茶と和菓子を持って居間にお出ましになると、上機嫌で、
「輪島はどっしりとした姿勢がいいね。」と話題が大相撲に移って行ったのです。 




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44.「徳川家康」(山岡荘八 著)を読んで

2016/07/16  カテゴリ:雑記


桜美林大学弓道部員獲得ダイレクトメール作戦を思いつく

……… 能安先生のネームバリューが窮地を救う ………

昭和46年の夏、当時大学3年生であった私は、弓道部員が思うように集まらず四
苦八苦しておりました。 そこで私が考えついたことは、弓道部員獲得のため関東
以北の高校に勧誘の書状を差し上げるダイレクトメール作戦を実施してみてはどう
かという案でありました。 このダイレクトメールの構想を、副将の井深君に話し、
書き綴った書面を見せると、「やりましょう」と賛成してくれたのです。 相馬部
長先生(経済学部教授)からも了解を取り付け早速作業開始。 およそ200校程の
高校に、「師範 範士十段 吉田能安先生」から弓道を学びませんか、といった内
容のお手紙を差し上げることになりました。

このダイレクトメールによる部員獲得の構想を思いついた切っ掛けは、当時ソニー
に務めていた姉の勧めにより、山岡荘八の「徳川家康」を読んだ事に始まります。 
徳川300年の礎を気づいた家康の忍耐強さ・思慮深さ・先を読む力等に、私はとて
も感銘を受け、家康から学んだこれらの事を、その後の部の運営に生かしていかな
ければならないという思いが、日に日に強くなって行きました。 桜美林大学弓道
部の末永い存続を計る為に、何かいい方策はないものかと考えた結果が、このダイ
レクトメール作戦となったのです。

このダイレクトメール作戦により、桜美林大学弓道部の師範が、あの兜射貫きで有
名な吉田能安先生であることが全国に知れ渡り、優秀な部員が集まり始めました。
石山俊彦君・石山佳彦君兄弟を始めとして、安田君、紙本君、小林君、岸さん等と
続き、今日の強固な礎が築かれて行ったのです。

桜美林大学弓道も次の東京オリンピック開催年に、創部50周年を迎えることになり
ました。 弓道部創設者として、今日の揺るぎ無い地位を築いた、それぞれの年代
における、後輩諸君の真摯な頑張りに敬意を表しつつ、現役諸君には50周年に向け
謙虚に日々是精進されること期待しております。

40数年前、英文科の学生として、シェイクスピア・トーマスハーデイ・ヘミング
ウェイ、マークトウェイン等の英米文学作品翻訳に夢中であった時に出会った、
山岡荘八の「徳川家康」。 英米文学にだけ目が向いていた時代に、日本の歴史小
説に触れ、故郷に帰ったような懐かしく新鮮な気持ちになったことを記憶しており
ます。 気がついてみると私は次の歴史小説を求めて、新原町田駅前にある(現在
の町田駅)久美堂書店の歴史小説コーナーの前に立っていました。

そこで偶然出会った作品が、司馬遼太郎が剣豪千葉周作の生涯を描いた「北斗の
人」でありました。 その中で書かれている「無心」と「無念無想」の逸話に心
を動かされることになるのです。 次回のブログでは、その事について述べてみ
たいと考えております。

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次回は、今回のブログとの関連から、「北斗の人」(司馬遼太郎著)について。 

◎ 司馬遼太郎作『北斗の人』の中に出てくる
   「無心」キコリと妙な獣の逸話、「無念夢想」春斎の逸話
   能安先生曰く、昔の武芸家なら誰でも知っている有名な話である。




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43.弽の着け方の要点

2016/04/05  カテゴリ:能安先生から学んだこと


能安先生から学んだ弽の着け方の要点について

……… 小紐は手首の二回り分の長さに作ってもらう ………

能安先生から、以下の写真の順番通りに弽を着けるように教わりました。 また
小紐は手首の二回り分の長さに作ってもらうことが大事であると。 その理由は
写真でお分かり戴けるかと思いますが、帽子が抜けないように、小紐を手首に巻
き付ける際に、重ねるのではなく、二列に平行に手首に巻き付けるためなのです。

前回のブログでお話した重富先生作の弽『久輝』は全てそのように作られており
ます。

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小紐の二回り目は、以下のように手の甲の側に平行に巻き付ける。
帽子が抜けないようにするためである。

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大紐は小紐の二回り目の手の甲側の端に合わせて巻き付ける。

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42.能安先生推奨の弽『久輝』

2016/04/01  カテゴリ:雑記


能安先生推奨の弽『久輝』

……… 弽のイミテーション製作なら、征矢弓具店をお薦めします ………

以下の写真の右が本物の『久輝』。 左がそれを見本に征矢弓具店で作って
戴いたイミテーション。 征矢弓具店ではイミテーションを「写し」と呼んで
おられるようです。

征矢と久輝 001_500.jpg


能安先生は、福岡県の弽師重富忠雄先生と懇意にされており、重富先生作の
『久輝』を愛用されておりました。 能安先生は重富先生と直接お会いし、細部
に亘って希望を申し上げ、試作を何度も繰り返し、正法流に適した弽が出来上が
ったことを、先生から直接伺ったことがあります。

従って、今から45年程前の私の学生時代(昭和44年〜47年)には、吉田
教場の門弟の多くの方々が、能安先生推奨の弽『久輝』を使用されておりまし
た。 当然の如く、私も能安先生から手形を取って戴き、押し手弽と対で『久輝』
を作って戴きました。 上記写真の右がその弽で、現在も使用可能なのですが、
桐箱に入れ大事に保管しております。 昭和55年に、やはり押し手弽と対で 重富
先生から二作目を作って戴き、それを平成5年頃から使い始め現在に至っており
ます。

ここ数年前から、教師時代に弓道を指導した教え子達から、「山崎先生から手形
を取って頂き作った『久輝』の 弽が古くなり、新しい物を作って戴きたいのです
が。」という問い合わせが数多くあります。 すでに、重富先生はお亡くなりに
なっており、なんとか教え子達の要望に応えようと、私の『久輝』をもとに、二
カ所に試作して戴いたのですが、期待した物が出来ず残念に思っておりました。

その後、ある弓具店の社長さんから「当社とは取引がないのですが、九州の征矢
弓具店ならできるかもしれません。」という情報を戴きました。 早速連絡を取
ったところ、「手形と『久輝』を送って戴ければ作れます。」との御返事。 お
よそ二ヶ月後『久輝』のイミテーションが出来上がり送られて参りました。それ
が上記写真の左側です。 見事な出来映えで、早速その弽を着け弓を引いてみた
のですが、正しく『久輝』そのもので、これならば教え子達にも紹介出来る「弽」
であることを確信することができた次第です。

但し、私は征矢弓具店のオリジナル製品の「弽」を使用したことはありませんので、
そちらに対するコメントは差し控えさせて頂きます。



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41.『おち』は漢字で表すと『大後』となる

2016/01/19  カテゴリ:能安先生から学んだこと


『おち』は漢字で表すと『大後』となる

……… 故 範士十段石岡久夫先生の著書にも ………

能安先生から、『おち』は漢字で表すと『大後』であると教わった事は、追想録
の第8章において、既にお知らせ致しました。

その後能安先生以外の先生方で『大後』という表現を使われている方にお目に
掛かったことがありませんでした。 ところが数ヶ月前に、古い弓道に関する
書物を整理していたところ、石岡久夫先生の著書『弓道入門』の弓道用語解説
に『おち』は『大後』との説明を発見し、嬉しく思いました。 石岡先生も、
能安先生のように理解されご自分の著書にもそのように使われいることを確認
することができたのです。

但し、石岡先生の著書の弓道用語解説には、大後「おち」と大前「おおまえ」
の説明のみで、大前次「おおまえつぎ」、中「なか」、大後前「おちまえ」の
説明がなされておらず、そのことが残念でなりません。

もう一度、1的から5的までの名称を以下の通り繰り返しますが、詳しくはこの
HPの追想録8章に書いておりますので、再度そちらをご覧下さい。

 1的  大前「おおまえ」
 2的  大前次「おおまえつぎ」
 3的  中「なか」
 4的  大後前「おちまえ」
 5的  大後「おち」


「吉田能安先生追想録」をネットに載せた後、後輩(弟弟子)の数名から  

    「初めて知りました。能安先生から伺う機会を逸し、
     何人かの先輩(兄弟子)からお聞きしても確たる
     答えが得られず残念に思っておりました。 有り
     難う御座いました。」

という内容のメールを頂戴致しました。 門弟の中にも知らない方が、多数お
られることが分かり、能安先生からお聞きしたことが、皆さんにお役に立てて
良かったと思っております。

<石岡先生について>
能安先生は明治24年生まれ。石岡先生は明治38年生まれですので、石岡先
生が14歳年下となります。 私は直接お会いしお話したことはありませんが、
学生時代町田市玉川学園7丁目に下宿しておりましたので、小田急玉川学園前
駅で何度かお見かけしたことがあります。 石岡先生は国学院大学の他に玉川
大学弓道部の師範をなされており、ご指導にお出でになられた時のことだと思
われます。

石岡先生はいつも和服を召され、弓具一式とバッグを抱え改札口を出られると
迎えに出ていた袴と稽古着をつけた玉川大の主将と思しき学生が、先生の所持
品を預かり持ち、大学正門に向かってご案内をしておりました。

「あの方が『弓道入門』を著された石岡先生か」と私は、矍鑠としておられた
先生に畏敬の念を持ったものでありました。 当時能安先生は80歳ですから、
石岡先生は66歳のはずですが、私には立派な方に見え、能安先生と同じぐらい
のお歳なのかなと感じておりました。

<能安先生から伺った石岡先生について>
私が学生時代、石岡先生の『弓道入門』を持参し吉田教場に稽古に伺った時に
「この本は、先生が指導されることと共通点があるのですが」と申し上げると、
「へい、石岡君が本を書いたのか」と本の表紙をご覧になっただけで、

  「彼は僕の前ではいつも直立不動でね、真面目な男なんだ。日大の
   道場開きの時に僕のところに挨拶に来てね。」

  「吉田先生ご無沙汰致しておりました。 先生、随分白髪が増えま
   したね。」

   と言うもんだから、彼に言ってやったんだ。

  「石岡君、きみ範士になったんだって。 範士になってようやくまと
   もに俺の顔を見れるようになったのかい。 ワッハハ。」とね。

これが負けん気の強い能安先生らしいところでもあり、一方で無用な誤解を招
く所でもあったかもしれません。

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今後の予定として「能安先生から教わったこと」については、以下の
ことについて述べてみたいと考えております。 順不同となりますが、
気長にお待ち戴ければ幸いに存じます。
◎ 弽のつけかたの要点。
◎ 打ち起こしは「狭く、高く」、
  「左より大きな右の肺で大きく息を吸いながら」大三をつくるべし。
◎ 「弝引き」の効能と重要性について。
◎ 「射」は観徳の器である。
◎ 書の基本「九成宮」を学べ。



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40.能安先生が大沢万治先生を評価

2016/01/14  カテゴリ:雑記【朝岡先生の思い出に追加】


能安先生が大沢万治先生を評価

……… 岩手にはもう一人上手いのがいたな ………

このブログのの38番で「朝岡先生の思い出」のお話を致しましたが、その続きと
して以下の事を追加させて戴きます。 朝岡先生の射をお褒めになった直後に、
能安先生は「そう言えば岩手には、もう一人上手いのがいたな。 小田島君と言
ったかな、旧制岩手中学から明治神宮大会に出て来てね、良い射を引いたんだ。」
とお話になられた事が、もう一つ印象に残っております。

この小田島先生こそ、後に二戸市の大沢家に入られ「大沢万治」を襲名し、岩手
県弓道連盟会長、全弓連副会長としてご活躍された方であります。

このように能安先生は「青森は佐々木君だ。(佐々木龍蔵先生)」と言うように、
ほとんどの県弓連の主立った先生方を知っておられました。

話は変わりますが、私の地元三戸町は長らく南部藩宗家の城下町でありましたが
山城から平城の時代になるにつれて、南部氏は三戸から今の岩手県盛岡市に移城
したのです。 このような経緯から三戸町は青森県ではありますが、岩手県の盛
岡市や県境の二戸市とは歴史的にも同じ南部藩に属し、現在でも政治・経済・文
化・スポーツ等の交流が盛んに行われております。

私の父も三戸町には高等女学校しかなかったため、お隣の岩手県二戸市にある旧
制岩手県立福岡中学に入学し(現岩手県立福岡高等学校、近年開催された岩手イ
ンターハイにおいて弓道男子団体優勝)、そこで弓道を始め北日本中等学校弓道
選手権大会で団体優勝。 それが講じて弓道に魅せられ自宅に道場を持つまでに
なったのでありました。

このような関係から、父は若い頃は盛岡の朝岡先生からご指導を戴いておりまし
た。 更には二戸市の大沢万治先生、藤田廣先生、森川忠一先生とは同年代で、
親しくさせて戴いており、三戸・二戸地区の各種弓道大会では、この四人が射場
審判席に着いていたものでした。



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39.能安先生の「威風堂々」とした構え

2015/12/10  カテゴリ:雑記【能安先生の写真から学ぶ】


能安先生の「威風堂々」とした構え
  ……… 能安先生79歳 桜美林大学合宿にて ………

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現弓界に、このような「威風堂々」とした構えを見せて戴ける射手は何方か?

昭和45年7月、長野県松原湖玄武館弓道場(故浅沼大八郎館長経営、当時教士六
段)において、桜美林大学弓道部が初めて夏合宿を行いました。  その最終日に
能安先生は第二玄武館弓道場に於いて、我々学生に巻藁射礼を見せてくれました。
射終わった後、本座での構えです。「今だ」とばかりに私がシャッターを切った写
です。

この時の巻藁射礼については、このHPの「吉田能安先生追想録」に詳しく書いて
おりますので、再度そちらをご覧下さい。

そちらには能安先生80歳と書いてありますが、合宿が7月、先生のお誕生日は9月
26日ですから、正確には79歳10ヶ月となります。


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38.能安先生と私の幼少時代の写真

2015/12/05  カテゴリ:雑記【能安先生と思いでの写真】


能安先生と私の幼少時代の写真
  ……… 能安先生69歳頃、私が7・8歳頃か ………

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HPリニューアルに当たって、書斎に積み上げた古い資料整理していたところ、
古い写真が見つかりました。左は、能安先生と両親と私が写っている写真で
す。昭和34年、青森岩手弓道大会が開催された8月の第一日曜日に撮影され
たものです。先生69歳、私が8歳で小学校3年生。 矍鑠とした能安先生。
道場の回りを遊んでいた私を見つけた先生が、恥ずかしくて嫌がる私を無理矢
理引っ張り込んでカメラに収めてもらったものです。

右の写真は昭和33年、私が7歳で小学校2年生頃のものです。弓は半弓で、
岡の朝岡先生(故岩手県弓道連盟会長範士八段。阿波門下生で能安先生の弟
子に当たる)からお借りしたものでした。 ご覧の通り恥ずかしながら、弓
などと言えるものではありません。 遊び道具に、弓、弽、矢を与えられた
うなものなのです。その後こんな私が、大学で能安先生から本物の弓道を教
わることになるとは、誰も想像出来なかったことでありましょう。

<朝岡先生との思い出>
大学時代、冬休み明けか、春休み明けのどちらかなのですが、「特急はつか
り」で上京する際に、偶然盛岡からお乗りになった朝岡先生と同席になったこ
とがありました。先生は全弓連の全国県弓連会長会議に出席されるとのこと、
車中「上野」まで弓道のお話をいろいろと承りました。上野での別れ際に、
「くれぐれも能安先生に宜しくお伝え下さい」と申しつかりました。その足で
西荻の吉田教場に伺いその事をお伝えすると、能安先生は大変喜ばれ「朝岡君
か、懐かしいね。彼の射は覚えているよ。上手いんだけど射が固くてね。」と
お話になられた事が印象に残っております。


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37.銘弓『吟翠』に出会う

2015/09/24  カテゴリ:吉田能安先生から学んだこと


能安先生 推奨矢筒『千筋』を求めた弓具店で
  ………  永野一萃作 銘弓『吟翠』に出会う 
         渡邊弓具社長 渡邊豊南様のご推薦による ………

前回、『塗り弓と塗籠籐』について述べましたが、その塗り弓を能安先生から
頂戴した、翌年のことであったと思います。 母校桜美林大学弓道部の追いコ
ンに招かれ上京した折に、神田の小山弓具を訪れ田舎の弓仲間から、依頼を受
けた弓具を買い求めていると、旧知の佐藤矢師が

 「先生、中々手に入りにくい、こよりで編んだ矢筒に漆を塗り込んだ高
  級品が入荷しているんですがご覧になりませんか」

と、お店の奥からその矢筒を取り出して参りました。

 「こんな矢筒を作れる職人が年々少なくなりもうこれが最後かもしれま
  せんよ。」 

前年能安先生から戴いた、「曙千段巻き塗り弓」の、「塗り籠籐」が頭をよぎ
り、籐に塗り込んだ漆と、こよりに塗り込んだ漆の違いはあるものの、その漆
の文様は実に美しく、技を極めた職人でなければなし得ない逸品であることは、
素人目にもわかるものでした。

20150926_001.jpg



早速その矢筒を購入し、能安先生に矢筒に名入れをして戴こうと、西荻の吉田
教場に向かいました。 型通りのご挨拶を済ませ、矢筒をお見せし名入れをお
願いした処、能安先生曰く、  

 「確かにいい矢筒だが、君なら『千筋の矢筒』を持つべきだ。豊橋に
  あるはずなので、岡山へ行った帰りにでも、俺が買ってきてやろう。
  名入れをせずに、それは誰かに譲ってやれ。」

それから、数年して先生はお亡くなりになり、『千筋の矢筒』は幻と消え、残
念乍ら手に入れることができず、いつしか『千筋』は忘却の彼方へ。

十数年前、名古屋で妹の嫁ぎ先の歯科医院ビル新築祝いに招かれ、名古屋へ行
く機会に恵まれました。(義弟は中川区に吉岡歯科医院を開業、現職の歯科医
師のための研修施設も完備し、研修会もたびたび開催しインプラントの世界で
は名が知れているらしい。 私の甥に当たる息子も歯科医師となり多忙を極め
ているとのこと。)

その帰途、豊橋の渡辺弓具を訪れることができたのです。 社長さんと初めて
お会いし、能安先生の弟子であることを伝え『千筋』の矢筒を探している旨を
伝えると、作る職人が亡くなり『千筋』は今では皆無とのこと、長年探し当て
た『千筋』にお目にかかることができませんでした。

意気消沈している私に、社長さんが奥の部屋から古い手紙を沢山持って来られ、
能安先生からのものですと見せて戴きました。 そのことから能安先生が渡邊
社長と懇意にされていて何度も豊橋を訪れていたことを知る事ができました。 

能安先生の思い出話に花が咲き、次のような裏話をお聞きすることもできまし
た。

 「日弓連の名だたる先生方が、能安先生がいらっしゃる時は教えを
  請いたいので、必ず教えて欲しいと言われ、お忍びで社長応接室
  で能安先生からご指導を受けたものですよ。」

昭和40年代前半私の大学時代に、東京都内の弓具店主の何人からか

 「今の都内の範士の先生方も偉そうなことを仰っておられますが、
  能安先生から指導を受けなかった方はほとんどおりませんよ。」

というお話を伺ったことはありましたが、それ以来の衝撃的ななお話でありま
した。

話が横道にそれましたが、社長さん曰く

 「山崎先生は、弓はどなたの作をお使いですか。」

それに対しては、『楠見祖峰』と『肥後三郎』のニベを使っておりますがとお
応えしますと、

 「永野一の『吟翠』を使ってみてはいかがですか。 性能が素晴
  らしく、こちらでは今大人気ですよ。」

使用中の弓ののキロ数を聞かれお答えすると、店から奥の部屋に行かれ、二張
りを持ってこられ、

 「どうぞ肩入れしてみて下さい」

と。 成り、弦通りを確認後、了解を得て弦音の確認、肩入れをさせて戴き一
張りを購入することになったのです。 青森に帰り巻藁、的前と引いてみると
矢勢があり的中も安定、社長さん伺ったことが確かなことであることを確信致
しました。 その後真夏用にと、多少強めの『吟翠』を購入したい旨をお手紙
を差し上げると、三張りが送られてきて、その中からお好きなものをと添え文
が。

昨年加齢から弓力を下げようと、15キロ前後の並寸を永野先生に直接お願いし
た処、先生曰く

 「性能から言っては四宝竹カヤ吟翠がおすすめ品」

とのこと、正法流の弦通りを併せてお願いし製作して戴くことになりました。
三ヶ月程して送られて来た新弓、早速巻き藁で引いてみると、目通りをりを過
ぎた当たりからニベ弓のように柔らかく割り込んでいくことができ、さらに会
に収まってからの伸び合いも柔らかく、これは今まで引いた弓の中で、ナンバー
ワンあるという確信を得ることができました。

能安先生がご存命であれば

 「的中音の後に弦音が聞こえる素晴らしい弓だ」

と絶賛されたに違いありません。 能安門下生の方々にお勧めしたい銘弓で
す。

こうして、能安先生推奨の矢筒『千筋』を求めた弓具店で、銘弓『吟翠』に
出会うことになりました。 これも能安先生のお導きかもしれません。 そ
れ以来『吟翠』のファンとなり、春秋用・真夏用・真冬用と3張りを所有し、
今日に至っています。

20150926_002.jpg



それにしても、能安先生があれだけ推奨して下さった『千筋』、本物を作れ
る名工の出現を待つことと致しましょう。


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36.漆塗弓と塗籠籐 こぼればなし

2015/05/11  カテゴリ:雑記【能安先生との思い出】


能安先生 人間味あふれるエピソード
  ………  曙千段巻き塗弓にまつわる裏話 ………

前回ブログをアップし一段落したところで、ブログ制作協力者の方と塗弓を頂
戴した当時の思い出話をしておりました処、その方が
 「それは面白いですね。 私は弓道素人で能安先生にお会いしたことも
  なく、これまでのブログの内容から、すごい方なんだと想像しており
  ましたが、今のお話を伺っていると、人間味があり親しみを感じます
  ので、是非そのお話をエピソードとして載せたらいかがでしょうか?」
と勧めて下さいました。
作り話ではなく、真実のお話でもありますので、以下の通り当時を振り返って
みることに致しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
塗弓に名入れをして戴いたことを確認し、その塗弓で一手引き能安先生から射
を見ていただこうと、弽をつけていると

 『引かんでいい。早くしまえ。早く早く。レイが帰って来たら、去年の矢
  のように、君はまたあいつに取られてしまうぞ。』

このように能安先生から急かせられたため、着けていた弽をはずし、戴いたこ
の塗弓を右近に入れ弓巻でしまい込んだのです。 その一部始終をご覧になっ
ていた能安先生と目を合わせると、笑顔で頷きながら満足そうに道場から居間
の方へ去って行かれれました。

20150511_01.jpg

父の遺した「中黒」と、能安先生から頂戴した「曙千段巻き」


実はこの年の前年、道場にお邪魔した際に、帰り際いつものように居間にお礼
のご挨拶に伺うと、テーブルの上に四ツ矢が用意されてありました。

矢羽は「大鳥の中黒」で、虫食い・羽抜け・擦れもなく手入れの行き届いた立
派なものでありました。

箆は「クスんだ黒色でほんの少しグレーが混じったような色合い」に見え、私
が弓を引き始めてから、初めて目にするものであったのです。

その珍しい箆について、能安先生に尋ねると

 「さわし箆というんだが、泥に1年間つけて置き、その後様々な行程を
  経て、このような箆に仕上がるんだ」

とのお話を伺いました。 また新品であると、黒光りをしているとのことでし
たので、かなり年数が経った年代物であるということがわかりました。


学生時代を含めて、吉田教場でこのような矢をお使いの門弟の方は皆無であり
ました。 私が入門する前はおられたのかもしれませんが、私が目にするのは
初めてであり、矢羽の「中黒」とその「箆」は、色合いが合っており、品格が
あり大変高価なものに見えました。

そして次に能安先生から、

 「この四ツ矢を形見分けで、君にやるから青森に持って行き大事に使っ
  てくれ。」

と予期せぬお言葉ありましたので、しばし絶句。

 「本当に私で宜しいんでしょうか。」

 「前々から、君へと考えていたものなので心配せんでいい。」

 「それでは先生、有り難く頂戴いたします。 先生のお気持ちを大切に
  受け止め、大事に使わせていただきます。」

丁度この会話が終わった所に、レイ先生が大学のお仕事から帰って来られまし
た。 どんな会話がなされたのか、レイ先生には察しがつかれご様子のようで、

 「山﨑さん、将来巻藁道場脇の事務所を改築し、資料館を作る予定があ
  るの。 その資料館に、価値ある弓具を陳列したいと考えており、そ
  の四ツ矢のさわし箆も、陳列したいと考えている一つなのよ。」

3人の間に、何か気まずい雰囲気が漂い、

 「そのような計画があるのであれば、とてもこの四ツ矢を戴く訳には参
  りません。 私が使わせて戴くよりも、貴重な資料として、広く皆さ
  んにご覧戴くことが、有益なことであると思いますので、頂戴するこ
  とを辞退させていただきます。」

レイ先生は納得顔で頷いて、ご自分のお部屋に戻っていかれました。

 「どうも女は目先のことに捕われ、この貴重なさわし箆を将来生かす
  ことができるのはだれなのか分かっていない……。 とにかく女は
  欲深くていかんな。」

前回のブログで曙漆塗り弓を能安先生から頂戴したお話した申し上げましたが、
この前年に、上記で申し上げた、「さわし箆」に関わるやり取りがあったので
す。

今にして思えば、このような、やり取りが前年あったため、能安先生にしては、
あの「さわし箆」に変わる物を、方見分けとして私へとお考えになっていたの
かもしれません。

私が、「さわし箆」の件の翌年に吉田教場に伺った目的は、学生時代に能安先
生から頂戴した竹弓「楠見祖峰」が、程よく枯れてきたため、塗り弓にしてよ
い頃合いであると考え、塗師紹介のお願いと、稽古を見て戴こうとに伺っただ
けであったのです。 それが何と図らずも、「曙千段巻」を頂戴することにな
ったのでありました。


その数年後、地方議員をしていた父が、議員研修旅行中の自由行動の時間帯に
「中黒の四ツ矢」を見つけ購入して参りました。 『さわし箆」ではありませ
んでしたが、高価なもので父は箆を磨いては眺めるだけで、決して使おうとは
しませんでした。 

余程気に入っていたのでしょう。 父の亡くなった後も触るのも憚られ、父の
矢箱にそのままにしておりました。 

最近このまま枯らすのも如何かと私の矢尺に合った箆に矧ぎ変え、能安先生か
ら戴いた塗り弓で引いて見ようかと考えるようになりました。 弓の世界に否
応無しに私を引き込んだ父、一人前に育てて戴いた能安先生、二人の恩に報い
る為にも。


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35.漆塗弓と塗籠籐(ぬりごめとう)

2015/01/19  カテゴリ:吉田能安先生から学んだこと


漆塗弓と塗籠籐(ぬりごめとう)
  ………  曙千段巻き( あけぼのせんだんまき)塗弓
         古文の教科書にもよく出てくる「塗籠籐」………

20140924-_02.jpg

上記の写真から、塗り弓の本体と、三カ所に使われている塗籠籐を、お分かり
戴けるかと思います。

大学時代、吉田教場(遊神館弓道場)に稽古に伺うと、能安先生は勿論のこと
高段者の方々は、竹弓の他に塗り弓を所持しておられました。 先生にその名
称を伺うと

 「曙千段巻き塗弓」

と教えて戴きました。 その塗り弓は、曙色(ワインレット風の色合い)のと
ても美しいもので、いつかは自分も欲しいものだと、憧れたものでありました。

塗り弓の種類は、能安先生に倣い、ほとんどの方が

 「曙千段巻き」

であったのです。 曙色は、文字通り朝の暁色で、赤とワインレットを調合し
たような色合いで、味わい深く品格があり誠に美しく、誰もがその曙色に引き
つけられ、魅了されたものです。

大学卒業後、出張で上京した際、能安先生に塗り弓を購入したく、塗り師の紹
介をお願いした処、思いもかけず、

 「いつの日にか、君へと用意したものが、あるんじゃ」

奥のお部屋から、塗り弓を取り出してこられたのです。
何とそれは、あの憧れの

 「曙(色)千段巻き」

であったのです。 早速金粉で、下関板の裏側に「山﨑」と名入れをして戴き、
更に矢摺籐の上部に能安先生から戴いた私の号

 「紫光」

を運筆鮮やかに揮毫して戴いたのです。

矢摺籐をよく見ると、漆が塗ってあることに気づき、そのことを能安先生に尋
ねると

 「塗籠籐と言うんだが、近頃ではこのような塗りができる
  職人がいなくなり残念だね」

というお答えでした。

この塗り弓は、我が家の床の間に飾り、先生の書の掛け軸とともに、我が家の
家宝といたしております。 現在も使用可能であり、矢渡しや礼射時に引いて
おりますが、全く衰えを感じさせない優れものであります。 銘は

 「筑前弘才」

となっており、作者の確かな弓制作の技を伺い知ることがきます。

この戴いた塗り弓を右近に入れ、弓巻きで包んでいる時に

 「塗籠籐は、古文の教科書にもよく出てきますよ」

と、私の耳元でそっと教えて下さった方がおりました。 お礼を申し上げ、帰
郷後、古語辞典や百科事典で「塗籠籐」を調べてみると

 「幹を籐ですきまなく巻き、漆で塗り込めた弓」
 「漆を塗り込めた籐の部分」
 「全てを籐巻きにし、漆で塗り込めた弓のこと」

等と記るされており、大変勉強になった次第です。
ある古語辞典には、「塗籠籐」の解説の後に、例文として

 「大中黒の矢をおひ、塗籠籐の弓 脇にはさみ~」<平家物語>

が、載せてあり、当時戦場に向かう武士の出で立ちが目に浮かぶようでありま
した。

それにしても、当時の職人の知恵工夫には頭がる思いが致します。 雨の中で
の戦さにおいて、戦い道具としての弓は、雨に弱い竹弓よりも、雨をはじく漆
塗り弓の方が、はるかに威力を発揮し、貴重で必要なものであっただろうと想
像できるのです。

能安先生から戴いたこの

  曙千段巻き(あけぼのせんだんまき)塗弓

を、折々には手入れを欠かさず、大事に使いこなし、能安先生の射に少しでも
近づけるよう胆に命じ、日々の稽古に取り組んで参りたいと考えております。


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34.正しい弦通り

2015/01/19  カテゴリ:吉田能安先生から学んだこと


正しい弦通り

  ……… 内竹の中心の延長線上に弦が張られている弓 ………

20140924-_01.jpg

上記写真から、内竹の中心の延長線上に、弦が張られていることが、お分かり
戴けるかと思います。

能安先生からは、

 「新弓を購入する際は、弦の通りは内竹の中心の延長線上に
  弦が張られているものを選ぶべし。」

と教わりました。

弓師によっては、弦が上関板の中心を通り姫反の当たりから自然に、内竹の
右端の延長線上、あるいは内竹の右端から三分の一の延長線上に張られるよう
に作っている者がいるが、それは間違いであると言われておりました。

能安先生がお亡くなりになった後、何年かしてそのことを思い出し、知り合い
の弓師さんにそのことをお話しすると、

 「私も自分の師匠から能安先生の仰るように教わりました。」

 「しかし、流派によっては右端の三分の一の延長線上に弦が
  来るように主張されている所もあり、また、個人的な強い
  拘りから、内竹の右端の延長線上に弦の通りが来るように
  考えている方もおられます。」

 「弓師としては、流派や、個人的な拘りのある方から、その
  ような弓の注文を戴くと、お客様のご要望に応えた弓作り
  をしなくてはなりません。その辺が、もどかしく、辛いと
  ころです。」

というお話を伺ったことがありました。

40年も前の話になりますが、大学卒業後、上京する度ごとに「いい弓を見
つけて来て欲しい。」と、田舎の教え子や弓道仲間から、竹弓の購入の依頼
を受け、都内の各弓具店を回ったものです。 能安先生の弟子であることを
お話をすると、弓具店の店主さんは笑顔に変わり、喜んで奥の部屋から秘蔵
の弓を取り出してきて、店には出しておられない逸品を見せて戴いたもので
した。

現在では、都内の弓具店もほとんど代替わりされ、吉田能安先生と言っても、
お分かりになる方は少ないかと思いますが、能安先生ご健在のころは、各弓
具店とも先生を知らない方はおられませんでした。 ですから、弟子である
ことを申し上げると、大変丁重な応対をして戴いた事を記憶致しております。


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33.南部藩主盃争奪弓道大会

2014/07/30  カテゴリ:雑記【三戸弓道協会主催大会紹介】


南部藩主盃争奪弓道大会

……… 南部藩主第44代南部利英公より

     優勝盃を賜り、今年で61回大会継続中 ………

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    南部藩主盃争奪弓道大会個人優勝三連覇(第59~61回)

昭和26年(私の生まれた年)、4・5月の連休に開催される三戸さくら祭りの
イベントの一つとして、父が中心となり弓道大会が企画されました。 当時、こ
の大会の趣旨に賛同された第44代南部利英公から優勝盃を賜り、大会名も南部
藩主盃争奪弓道大会と決定。 さくら祭りのメイン会場である三戸城山公園に、
仮設の射場を作り、そこで大会が開催されることになりました。

父の話によりますと、野立ての仮設射場であったため、雨天時には中断し射場に
テントを張り再開するという、大変な作業であったそうです。

そんな事情から、昭和33年からは、自宅の脇に作った初代廣楓館弓道場で開催
されることになりました。 その年は私は小学二年生で、南部利英公ご夫妻が、
お付き方々と、大会観戦のため道場にお出でになられました。 母が茶菓子の接
待のため、緊張した様子で審判席と台所を忙しそうに往復していたことが、強く
印象に残っております。

昭和35年自宅裏のサクランボ畑に、父が私費を投じて6人立ちの正式な弓道場
2代目廣楓館を完成させました。 以来父が亡くなった翌々年の平成元年まで、
この道場で大会が継続されたのです。
余談になりますが、昭和36年にはこの廣楓館弓道場で青森県高等学校春季弓道
選手権大会が開催されております。 後にも先にも、個人道場で高校の公式試合
が開かれたのは、我が家の廣楓館弓道場だけであります。

昭和62年12月父が死去。翌63年4月の総会で、私が父の跡を継ぐかたちで、
三戸弓道協会と三戸郡弓道協会の会長に選出され、その任に当たることになった
のです。

平成2年、私から願い出て、南部藩第45代南部利昭公から南部家の家紋を彫り
込んだ高価な優勝盃が寄贈されることになりました。 この南部利昭公こそが、
後に請われてあの有名な靖国神社の宮司になられ、様々な方面で、我が国の為に
ご活躍された方なのです。

更に、南部藩主盃争奪弓道大会の会場も、5人立ち3射場で、3チームが一度に
競技ができる三戸町民体育館特設射場に移されました。 また、これを契機に三
戸弓道協会では、総ヒバ作りの優勝額を用意、初代南部光行公を祀る糠部神社山
﨑俊哉宮司の賛同を戴き、南部盃獲得者がその優勝額に自筆記名、優勝額は社殿
に常時掲額されることに決まり、現在まで継続されております。

この間、三戸町民体育館の天井改修工事の年と、トイレ改修工事の年に日程が重
なり二度中止を余儀なくされ、本来であれば今年で63回目を迎えていたのです
が、そのような事情から61回を数えるに至ったのです。 親子二代にわたり、
多くの皆様方のご協力を賜り、よくぞここまでたどり着くことができたものだと、
感謝感謝の今日此頃であります。

この大会を継続できたことは、能安先生から教わった全てのことが、私の自信に
繋がり、大きな力になったことは確かなことであります。 更に吉田弓道の確立
を目指し、稽古に精進を重ね、大会の継続と自己の競技成績の向上に向けて、頑
張る覚悟であります。

次回は能安先生から教わった正法流の「弦通り」などについて書こうと考えてお
ります。


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32.新刊本「弓道研究」 紹介

2014/03/31  カテゴリ:雑記【能安先生晩年の高弟が綴る】


新刊本「弓道研究」 紹介

……… 正法流精義 正射のための射士論考 ………

吉田レイ先生監修、紫鳳会編集による、「弓道研究」が、2014年2月25日、BAB
ジャパン社から出版されました。

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昨年12月下旬に吉田教場に稽古にお邪魔した際に、紫鳳会副会長土井教士より、
1月末頃に「弓の道 正法流入門」の続編に当たるものが、出版されるということ
を伺っておりましたので、楽しみにしておりました。

3月初旬、土井教士から私の元へ、その新刊本が恵送されて参りました。 有り難
く頂戴し、今日まで最初から最後まで興味深く拝見させて戴きました。

先に出版された「弓の道 正法流入門」が、正法流の基本を学ぶ入門書とすれば、
今回の「弓道研究 正法流精義」は、吉田能安先生の弓道思想、弓道理念を更に深
く理解研究しようとする、上級者編に当たります。

吉田レイ先生監修のもと、 紫鳳会会長寺田先生を始めとして、土井、金子、朝倉、
宮尾の各教士先生共同執筆による大作で、今回は特に「弓の道 正法流入門」と比
べ、写真が多く取り入れられ、読者に取って見取り稽古の格好の資料としての役割
を果たしております。 特筆すべきことは、各先生方がご自身の射を誌上で公開さ
れたことに、正法流に懸ける並々ならぬ決意が感じられ、心から敬意を表するもの
であります。

このように、正法流の教本とも言えるものが、以下の如く4冊揃いました。
 1 「日置流竹林派正法流要諦」( 紫鳳会発行 非売品)
 2 「弓の道 正法流入門」( 紫鳳会編集 BABジャパン出版局)
 3 「正法流 弓道いろは訓 吉田能安先生の教え」(寺田隆尚 文藝書房) 
 4 「弓道研究 正法流精義」( 紫鳳会編集 BABジャパン出版局)

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後は、能安先生の薫陶を受けた門弟同士が、競い合い協力し合い、目に見えた成果
挙げることでありましょう。 

余談ではありますが、能安先生が亡くなられた後、先生の師範代の役目をされた
井戸正美先生が三戸に指導にお出でになり、我が家に二日間お泊まり戴きました。
その夜の夕食時に、お酒を酌み交わしながら伺ったお話です。 

昭和20年代後半、能安先生は弓道理念の違いから、全弓連と袂を分かち、大日本
武徳会の創設に奔走されていたそうであります。 そんな折、能安先生から数ある
弓道大会の中でも、弓道界の最高峰である全日本弓道選手権に出てみないかとう
お話があり、

 「親父(親しい者にはそのように能安先生ことを呼んでおられた)が大変
  苦境に立たされていた時でもあり、能安先生の弓道理念が正しいことを
  証明する絶好の機会と捉え、意を決して出場を決めたのだ」

と伺いました。 その結果

 昭和29年全日本弓道選手権優勝、見事に天皇盃を獲得

能安先生の教えが正しいことをまさしく証明されたのであります。

このことは、本大会の優勝者のみが掲額できる京都三十三間堂奉納優勝額に、
井戸正美先生の名前が記されており、本大会で優勝したことが記録として残さ
れております。 また、能安先生亡き後、正法流を実践できる最高位の方で
あった、井戸正美先生について書かれている書籍が少なく、残念であると感じ
ております。

話を戻しますが、正法流の価値を高めるためにも、我々吉田能安門下生は、こ
の井戸正美先生の偉業を目指す若手を育てる義務と、そのことを成し遂げるた
めに、更なる自己研鑽が必要となって参りました。 私も門下生の一人として、
その責務を果たすべく、更なる努力精進を重ねる覚悟であります。

平成22年私が著した「吉田能安先生追想録」の第8章の冒頭でも申し上げま
したように、繰り返しになりますが、正法流の射義・射法に関しては、今回新
たに発刊された「弓道研究」を加えた上記4冊を参考にされて下さい。
私たち門下生が能安先生に教わったまさしくそのものが書かれております。 

私のこのブログでは、その4冊の内容以外のことで能安先生から教わったこと
や、様々なエピソード等について、思い出す度ごとに書き綴って参りたいと考
えております。 そのことが、吉田能安先生が唱えられた正法流の継承発展に、
少しでもお役に立てるならば幸いであります。


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31.一を聞いて十を知る

2014/03/11  カテゴリ:吉田能安先生から学んだこと


一を聞いて十を知る
……… 師から学んだことを、とことん研究し
      自らが体現できなければ意味がない
    更に、学人が「一を聞いて十を知る」ことができる
      模範となる射を、確立していくことが肝要である ………

吉田教場で一日の稽古を終え、居間におられる先生にご挨拶に伺うと、柏手を打ち
「貞子」と奥様をお呼びになる。 「へい」というお声とともに奥様がお出でになる
と、「山﨑にお茶をだしてやれ」といつもと変わらぬ先生のお言葉とともに、奥様が
お茶と和菓子を出して下さる。 田舎者の私に取っては、

 あたかも時代劇の一コマを演じていいるような錯覚

を覚えたものでした。

それから2時間以上に及ぶ弓道談義がはじまります。 しかも正座をしたまま先生の
お話を伺わなければならないのです。 最初の頃はそれがとても苦痛に感じられまし
たが、吉田教場での弓道稽古の面白みが理解できるようになるにつれて、稽古後の居
間での先生のお話も、苦痛どころか足のしびれも忘れるほど、楽しみに変わってきま
した。 そんなある日のこと、

 「師から学んだことを、とことん研究し、自らが体現できなければ意味がない」

と言われました。 理屈で理解できても、とことん研究し、実際にその技を自分の
ものとし体現できなければならない、ということなのです。 また次のようなこと
も言われました。

 「一を聞いて十を知る」

将来君は親父の跡を継ぎ、近隣の弓人を束ねる役割を担っている。 従ってその弓
人達が「一を聞いて十を知る」が如く、模範となる射を身につけなければならない。
今後、その覚悟を持って稽古に取り組まなければ上達は望めないし、大成はしない
と。

その当時の吉田教場には、レイ先生、井戸先生(昭和29年全日本選手権優勝、天皇
盃獲得)をはじめとする高段者の方々、そして若手には、大宮竹彦、入江正和、佐
藤肇といった錚々たる名射手が揃っておりました。

この方々の射を見取り稽古できたことは、私に取って貴重な財産となりました。 
その見取り稽古から、能安先生から教わったことを研究することができ、更にその
過程に於いて、「一を聞いて十を知る」が如く、新たなことも理解でき、自分の稽
古に生かすことができたのです。

私は2014年、63歳を迎えました。 若手弓人に「一を聞いて十を知る」ことを求
めるならば、それに応えるだけの理論と技を身につけていなければなりません。
能安先生始め、先輩諸兄姉のご恩に報いるためにも、模範となる射を目指し、日々
是精進を続けております。

そして毎朝神仏への拝礼の後、能安先生の遺影に向かい、

 「言行一致、正法流の確立を目指して参りますので、どうかお守り下さいませ」

と、祈りを捧げることから、一日が始まるのです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弓道とは関係ありませんが、本日は、 3.11 、あの東日本大震災から、丁度3年が経
過致しました。 この震災によりお亡くなりになった方々のご冥福をお祈り致します
とともに、心から哀悼の意を表するものであります。

また被災された方々、避難を余儀なくされ故郷を離れなければならなくなった方々、
障害を乗り越えられ、一日も早い復興に向けて地域力を生かし、更に頑張っていた
だくことを切に願っております。


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30.法政一高 三戸夏合宿第1号

2014/02/27  カテゴリ:雑記【能安先生推薦による三戸合宿実施学校】


 法政一高 三戸夏合宿第1号 
……… 夏合宿を実施された学校は以下の通り
      法政一高・学芸大付属高・日比谷高・桜美林大 ………  


能安先生が師範をされている法政一高が、昭和37年初めて三戸で夏合宿を実施されま
した。 その当時東京の高校生が、三戸という田舎町で合宿するなどということは、考
えられないことでありました。 生徒さんに喜んで戴こうと、大人の方々が歓迎準備に
奔走されていたことが懐かしく思い出されます。 私は小学6年生でしたが、友達たち
に「東京の高校生が家に合宿に来るんだぞ」と自慢げに話しをした記憶があり、特にこ
の合宿が強く印象に残っております。
下の写真は、合宿最終日に記念にと 廣楓館弓道場を背景に矢道で撮影されたものです。
中列中央に能安先生。 前列中央が部創設者富田主将。 富田さんは、その後成城大学
でも弓道部を創設され、初代主将を務められました。 前列右から二人目が1年生な
がら青森岩手弓道大会で個人優勝された宮崎さん。

20140228_01.jpg

法政一高夏合宿 三戸高弓道部員と共に (於 廣楓館弓道場  時:昭和37年)


私たち家族全員も記念に、この集合写真に入れさせて戴きました。 その後の学校さん
もそれぞれ記念に集合写真を撮影されたのでありますが、私共家族全員が映っている写
真はこの写真だけであります。

中列右端から私(小6、現在63歳)、妹(現在54歳)、母(現在87歳)、能安
先生の左隣が父(平25、27回忌法要を済ませる)、後列左端が姉(中3、現在
66歳)の5人家族でした。

この文を綴りながら、 法政一高の皆さんに関わる以下の記憶が蘇って参りました。
 1 三戸城山公園の散策と三戸城の見学。
 2 田舎の盆踊り大会見学と特別参加。
 3 三戸高弓道部員との合同十和田湖バス旅行。
 4 毎日、母が大きな鍋で茹でたトウモロコシの味、如何でしたでしょうか。
 5 南部せんべい・巴旦杏など豊富な果物・トマトの差し入れ。
 6 廣楓館主催、青森岩手弓道大会(毎年8月第一日曜開催、青森県南・岩手県北
   の高校生出場)への参加。法政一高宮崎正昭さんが、1年生で個人優勝。
 7 三戸での合宿を終えると、青森ねぶたを見学のため、青森市に移動………。

この合宿に参加された法政一高の皆さんは、現在では67歳から69歳になられてお
ることと存じます。 私も今後機会を捉えては、吉田教場に稽古に伺いたいものだと
考えております。 いつの日にか皆さんに再会できることを楽しみに致しております。


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29.離れの「握り込み」(補足)

2014/02/18  カテゴリ:吉田能安先生から学んだこと


離れの「握り込み」(補足)
……… ピストルの引き金を引くが如く
          人差し指を握り込む ………

私は、このブログ12番で、離れは「弓手の手の裏を握り込む」ことから生じる(弓
手の握り込みが、離れを誘発する)と、能安先生から学んだことを記しました。
このことについて、以下のように補足致します。

その後、ある方から離れは

 「 ピストルの引き金を引くが如く、人差し指を握り込む」

と能安先生から教わったというお話を戴きました。

その通り間違いありません。 私も先生が上級者の指導をなさっている時に、全く同
じことを伺ったことがあります。

能安先生は、同じことを教えるに当たっても、その方の射法や、技量に応じて色々と
分かり易い例を示され、指導されたものです。ですから、兄弟弟子たちと意見交換を
しても同じことについて、「僕はこのように教わった。」「私はこのよう教わった」
と、それぞれ違います。 しかし先生の言わんとすることは結局は同じなのです。

私が12番目のブログで述べたことが基本で、そのことがマスターできた上級者の方に、 

 「 離れは、ピストルの引き金を引くが如く、 人差し指を握り込む」          

と指導されたのだと思います。 ですからその方はかなりの技量の持ち主であること
は間違いありません。

料理に例えるならば、

 「もう少し塩味が効いていればパーフェクトだ。」

その人差し指の指導は、この塩味に当たるのです。 ピストルの引き金を引くが如く
人差し指を握り込めば、今以上の鋭い離れ・矢飛びが生まれると、能安先生は更に
高みを目指した指導をされたかったのだと思います。

基本が大事であることは言うまでもありません。 握り込む基本ができていない初心
者にそのことを話しても理解できず、 人差し指を握り込むことだけに集中し、小指が
おろそかになり、小指を飛ばす程度のものになってしまうかもしれません。


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28.能安先生とレイ先生を偲ぶ写真集

2014/02/07  カテゴリ:雑記【能安先生養女・吉田レイ先生の逝去を悼む】


能安先生とレイ先生を偲ぶ写真集
……… 主に三戸での夏合宿を中心に
       昭和37年から昭和40年代前半にかけて …………

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珍しい能安先生とレイ先生のツーショット(於:三戸高理科室 時:昭和39年頃)

この写真は、能安先生が師範をレイ先生が顧問を務める学芸大付属高校高校弓道部
が、三戸に夏合宿に来られ、三戸高校弓道部との交換会をした時に、撮影されたも
のです。 お二人の珍しいツーショット、能安先生の蝶ネクタイ姿も、滅多にお目
にかかれるものではありません。

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  学芸大付属高校夏合宿 (於:廣楓館弓道場垜前   時:昭和41年)

この写真は、学芸大付属高校が三戸で二度目の合宿をされた時に 廣楓館弓道場垜前で
撮影された集合写真から、両先生が分かるようにその部分を抜粋したものです。

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三戸高校弓道部員を指導される能安先生 (於:廣楓館  時:昭和41年)

学芸大付属高校弓道部員が一日の稽古終了後、三戸高校弓道部員を指導する能安先
生です。レイ先生は生徒を引率し宿舎にお帰りのため、この写真には写っておりま
せん。

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三戸高校弓道部員を指導される能安先生 (於:廣楓館  時:昭和41年)

夕方、三戸高校に割り当てられた限られ時間に、能安先生の指導に真剣に耳を傾ける
三戸高校弓道部員達。 一番前で引かれている方は、現役学生が宿舎に帰ったあと、
個人稽古に励む 学芸大付属高校弓道部OB。

以上の写真は父のアルバムから、見つけたものです。 ずいぶん昔のことですので、
父から聞かされていたことの記憶を辿りながら綴づらせてい戴きました。


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27.吉田レイ先生の告別式に参列して

2014/02/01  カテゴリ:雑記【能安先生養女・吉田レイ先生の逝去を悼む】


吉田レイ先生の告別式に参列して
………能安先生のお側にお仕えし、能安先生の難解な解説を
     そっと優しく噛み砕いて教えて下さったレイ先生に感謝………

吉田能安先生の養女吉田レイ先生が1月21日、御年95歳にてご逝去されました。
12月医師からは年内は持たないのではないかと聞かされておりましたので、ここまで
持ったことは、その強い精神力に驚かされます。 枕元で「レイ先生!息合い!息合い!」
という兄弟弟子の励ましに、何度も息を吹き返し、最後は目を開いて小さなお声で「あ
りがとう」と言われ息を引き取られたとのこと。 紫鳳会金子副会長によりますと、立
ち会われた医師・看護士も「こんな立派な臨終の場は初めてだ」と感嘆しておられたこ
とを聞かされ、涙いたしました。

 1月26日、午前10時30分より、光明院(杉並区上荻)において告別式、火葬、
精進落とし、弓道吉田教場へのお帰りと、葬儀委員長、紫鳳会会長、寺田隆尚先生の
差配により、幹事の方々の一糸乱れぬ連携のもと、葬儀が滞りなく終了いたしました。

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         レイ先生 告別式式場

20140201_01.jpg

         昭和52年妙高での夏合宿の一コマ
 巻藁前で引かれるレイ先生と学生達の大後で引く27歳青年監督の私


精進落としでは、能安先生、レイ先生の思い出話で盛り上がっては、あちらこちら
でお嗚咽の涙、涙。それでも名残惜しく、場所を変え第二道場で再度懇親会(紫鳳会
では二次会場を第二道場と呼ぶ)が開かれ、弓道談義が夜遅くまで続けられました。

紫鳳会幹部の方々の参加は勿論のこと、戦後の日本大学弓道部初代主将鈴木先生、駒
沢大学弓道部監督古屋先生、成城大学弓道部OB、桜美林大学弓道部初代主将の私を含
め、能安先生・レイ先生の関わった四大学が揃い、貴重な意見交換の場となり、多く
のことを学ぶことができ、大いに勉強させて戴きました。

 私とレイ先生の思い出は尽きることはありません。田舎から上京し吉田教場でのス
マートな立ち居振る舞いができず困惑している私に対して、また能安先生の難解な解
説を理解できずにいる私に対して、そっと優しく噛み砕いて教えて下さったレイ先生、
父と同年代でありましたので、母のような存在でありました。

 大学卒業後は、能安先生・レイ先生と私の三人で、青森県内各地を小旅行させて戴
きました。 今でこそ世界遺産に登録され有名になりましたが、当時はそれほど知ら
れていなかった、青森・秋田県境にまたがる白神山地の麓にある、十二湖の青池を訪
れたことが一番の思い出となっております。このことは項目を変え「十二湖の思い出」
として、再度お話させて戴くことにいたします。

 吉田教場同期生の、山田恵一幹事のお話によりますと、21日から26日にかけて、
延べ600名の方がお別れに参いられたとのこと、レイ先生の人徳が偲ばれます。先
生どうか安らかにご永眠下さい。心から哀悼の意を表するものであります。


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26.仮公開ながら反響に驚いております

2014/01/19  カテゴリ:雑記

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当初のブログ公開予定日より、だいぶ遅れたにもかかわらず、沢山の方々からの
反響に驚いております。 本当に有り難うございました。

ブログの更新は不定期ですが、まだまた書き連ねたい事がありますので、最後ま
でおつきあいいただけたらと願っております。

改めて、ブログを読んで戴いた全ての皆様方に、心から感謝を申しあげます。

それでは次の更新まで、少しばかり気長におまち頂けましたら幸いに存じます。


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25.ブログ公開に当たり

2014/01/07  カテゴリ:雑記


2014 年お正月に、書き貯めていた吉田能安門下生山崎誠のブログを公開致します。

知人教え子には、2013.11.1に開始、その後12.1に開始を変更と伝えていたため、
年賀状で、多くの方から催促され恐縮致し致しております。まだまだ未完成ですが、
敢えて公開することに致しました。

非公開中に、ご指摘ご協力を頂いた方々に、心から感謝と御礼を申しあげます。


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